明治19年・1886
11月27日、東京市牛込区に生まれる。父嗣章は千葉県安房郡の出身で、当時陸軍一等軍医。嗣治は次男で、四人姉弟の末子。
明治38年・1905(19)
9月、東京美術学校西洋画科に入学。
大正2年・1913(27)
6月、渡仏。
大正8年・1919(33)
はじめてサロン・ドートンヌに出品。出品した6点が全部入選して、その年に会員に推挙され、パリ画壇における地位の確立に第一歩を踏み出した。
大正10年・1921(35)
サロン・ドートンヌの審査員に挙げられ、いよいよ黄金時代が展開する。
大正13年・1924(38)
10月、このころからフェルナンド・バレと別れてユキと暮す。
大正14年・1925(39)
レジオン・ドヌール五等勲章を贈られる。
昭和4年・1929(43)
9月、ユキを伴って17年ぶりに帰国。
昭和5年・1930(44)
1月、北米を経由してパリに帰る。9月、ニューヨークに渡って個展を開き、またグリニッチ・ビレッジにアトリエを借りて3カ月間制作を行ない、さらにシカゴに1カ月滞在する。
昭和6年・1931(45)
1月、パリに引揚げる。10月、ユキに別離の手紙を残し、マドレーヌを伴ってブラジルに旅立つ。
昭和7年・1932(46)
3月、アルゼンチンに入り、さらにボリビア、ペルー、キューバなどを回る。11月、メキシコに着き7カ月滞在する。
昭和8年・1933(47)
ニューメキシコ、アリゾナからカリフォルニアに渡って4カ月を過し、11月、マドレーヌと帰国。
昭和11年・1936(50)
12月、堀内君代と結婚する。
昭和13年・1938(52)
10月、海軍省嘱託として中支に派遣され、漢口攻略戦に従軍する。
昭和14年・1939(53)
4月、渡米。5月、パリに着く。
昭和15年・1940(54)
5月、第二次大戦の戦火迫るパリを脱出し、帰国。9月、陸軍省嘱託として、ノモンハンの戦闘を主題とする作品を制作するため新京に向い、10月、帰国する。
昭和16年・1941(55)
1月、父嗣章死去する。7月帝国芸術院会員となる。10月、帝国芸術院、国際文化振興会から文化使節として仏印に派遣される。
昭和20年・1945(59)
8月、疎開先の神奈川県津久井郡小淵村藤野で敗戦を迎える。
昭和22年・1947(61)
9月、ニューヨークのケネディ画廊で近作の展覧会が開催され、好評を博する。10月、第3回日展第2科審査員となる。
昭和24年・1949(63)
3月、渡米。フランス入国の許可も受けた。「日本画壇も国際的水準に達することを祈る」というのが故国に残す言葉であった。
昭和25年・1950(64)
2月、英国を経てフランスに着く。
昭和30年・1955(69)
2月、フランス国籍を取得。フジタは第二の故郷パリの市民となった。
昭和34年・1959(73)
10月、ランス大寺院で夫妻ともどもカトリックの洗礼を受ける。洗礼名レオナルド。レオナルド・フジタの第一作「聖母子像」を同寺院に寄贈する。
昭和43年・1968
1月29日、81歳で死去。2月3日、ランスのカトリック大寺院で葬儀。4月、勲一等瑞宝章を追贈される。遺体はノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂に埋葬される。