香月泰男(1911-1974)

 

現在の山口県長門市三隅に生まれた香月泰男は幼い頃から画家になることを夢みていたといいます。10歳の頃に母親は家を出、その原因となった父親は放蕩の果てに出奔し朝鮮で亡くなり、祖母も12歳のときに死去しています。明治気質の厳格な祖父に育てられ、誰にも必要とされていないと常に孤独を感じていた幼少期でした。中学卒業後、東京美術学校を受験し3度目に合格。藤島武二教室で学びました。

 

1936年、北海道庁立倶知安中学校(現・北海道立倶知安高等学校)に美術教師として赴任します。27歳で結婚もし、子供にも恵まれます。

国画会で入選を重ね、文部省美術展覧会で特選となるなど、創作活動に確信と自信を持ち、新たな境地を開きつつあった、まさにこれからという折に太平洋戦争が勃発。1942年に召集令状を受け、翌年満洲に動員されます。

 

そして1945年、終戦と同時に故郷に帰れると思った矢先、ソビエト軍により強制的にシベリアに送られ、セーヤ収容所での奴隷労働に従事させられます。食事もまともにありつけない、零下30度にもなる劣悪な環境で重労働を課せられ、飢えと過労で仲間は次々に息絶えていきました。香月はそのような苦境にあっても周辺の人物や自分を冷静に眺め、自然の美しさに感動する画家の心を失わずにいたおかげで生き延びられたと後に語っています。

 

およそ2年という月日が流れ、やっとの思いで日本の土を踏みます。故郷の三隅町で家族との幸せな時間をかみしめるように暖かい色彩で身近なものを描いていました。しかし、50年代後半からシベリアでの体験を本格的に描き始めます。あらゆる顔料を油絵具に混ぜる実験を重ね、マチエール作りの研究が始まります。

 

そしてもう一つ、こだわり抜いたものがありました。

「ゴーギャンはゴーギャンの顔しか描かなかったし、モディリアニはモディリアニの顔しか描かなかった。絵描きにとっては、自分の顔を創造することがはじめで終わりである。自分の顔を創造できないうちは、画家として未完成であるといってよい。(略)私も長い間、自分の顔を求め続けてきた-」

517 香月泰男 人と牛 21.5×16.2㎝ hp

思考錯誤を繰り返したのち、1959年作の「北へ西へ」ではじめて“私の顔”を描いたと語っています。シリーズの最大の特徴であり、自身も求め続けてきた「顔」が完成したのです。

今回ご紹介する作品は、ちょうどこの「香月泰男の顔」と、木炭粉と方解末を用いた独自のマチエール、香月の集大成ともいえる後期の重要な様式が確立された頃の1960年に制作されました。生涯をかけてシベリアを描き続けた香月芸術の真髄が味わえる貴重な作品です。