速水御舟(1894~1935)
『桔梗』1934年5月
速水御舟(蒔田栄一)は東京の浅草に生まれる。元来書画骨董が好きだったという父蒔田良三郎は質屋を営んでいた。そのため御舟は幼い頃から刀・能衣装など美術品に囲まれ、それらを眺めては喜び「幼い時から絵は好きで隙さへあれば絵を描いてゐた」という。
10歳の頃には近所で蒔絵を習い、14歳で松本楓湖の安雅堂画塾に入門する。楓湖は放任主義の教育を行っており、弟子に古画の粉本を手あたり次第に渡して描かせていた。ここで御舟はやまと絵の絵巻、琳派、中国の宗元画など幅広い古典を模写し技術を学ぶ。
同塾の先輩には今村紫紅・同輩に小茂田青樹がいた。新南画とも言われる独自の技法を確立した豪放磊落な紫紅からは多大な影響を受けた。「日本画がこんなに固まってしまってはダメだ、僕が壊すから君たちが建設してくれ」という言葉を御舟や後輩たちに残し紫紅は若くしてこの世を去る。
それからの御舟は、よく知られているこの言葉-「梯子の頂上に登る勇気は貴い。更にそこから降りて来て、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い。」-が示すとおり、短い画業の中で常に新たな試みに挑み、大きな変化を繰り返す。「洛北修学院村」「京の舞妓」「菊花之圖」「鍋島の皿に柘榴」「炎舞」「翠苔緑芝」「名樹散椿」…それぞれが代表作と呼べる、時代を先駆けた驚くべき作品を残していく。
1930(昭和5)年に日本美術展(通称ローマ展)が開催され、御舟は名樹散椿とともにイタリアへ渡る。西洋美術をつぶさに鑑賞して廻り、改めて日本や東洋美術の長所や短所を痛感したという。水墨画の再発見もその一つであった。
その頃から墨の濃淡や滲みをきかせた花鳥画をしばしば描くようになる。これらの作品が写実的に見えながら、実際は少し異なっており、実物以上の美しさや存在感を醸し出している所以は御舟のこの言葉から読み取れる。少し長いが引用する。
「椿を描く時に、それを納得するまで写生するのは、ただ外形を写すのではなく、椿というものが創造の神によって創られているその椿ならではの仕組みをその表から裏まで解剖して、幹はどう、枝はそこからどう伸び、葉はどうなっているのかを、それぞれ明確に写し取りながら完全にその総てを記憶することが肝要なのだ。それには一カ月写生にかけてもかまわない。そして総ての仕組みとそれをあらゆる角度から見た時の形にまで精通し記憶したら、今度は写生などを手許に置かず、紙や絹を張ったところを宇宙と考えて、自分が創造の神になったつもりで、自由にのびのびと自分の椿を好きなように描いていくのだ。一度記憶の中で育むと、不必要なものは消滅し、美しいものは自ら誇張されて、その椿は実物とは異なった絵そのものとなって美しく画面の上に蘇るのだ。」
こちらの作品は亡くなるほんの10カ月前に描かれたもので、上記の言葉を語った頃にあたる。写生によってじっくりと体内に取り込んだ“御舟の「桔梗」”を軽やかに描いたものであろう。白緑の上から墨をたらして滲ませたたらし込みの表現は偶然のようでいて実は計算されつくした美を感じる。小品ながら品格があり、御舟の秀でた感性と筆技が光る。